アマチュア無線の楽しみ

   
 1984年作成のQSLカード  1985年購入のTRIO TS-670
7/21/28/50MHzの4バンド 10W機。16-7万円した。
2015年末、一応健在に見える(まだ電波出せない)

2015-Dec-31

電波が飛ぶのが面白い

無線の何がおもしろいのか。子供の頃は、電波という、目に見えないのに光速で遠方まで届くモノが不思議のかたまりでした。電線に電気を通して伝わる有線電話なんてあったりまえだけど、高周波電流という媒体をまず作り、そこに信号を載せて運ぶ電波がかっこよかった。今考えると、電線の中を交流が伝わるとか、光ケーブルで何㎞も減衰しない通信というのも驚異的ですけどね。で、その電波を自由に操るには免許が必要というのがまたかっこよかった。周波数は貴重な資源、だから世界中で分け合って使わなければならない、無駄な通信はしちゃいけないというのもいいじゃないか。携帯で免許も持たない子供までがしゃべくる時代になるとはだれも思わなかった。当時は、テレビやラジオが大変なハイテクだったのですよ。

真空管ラジオで聞く短波帯

小学生の頃、家には、いわゆる5球スーパーのラジオがあった。5球というのだから真空管である。真空管は球であり、タマと呼ぶこともあった。小学校1年生の頃、我が家でようやく買えたTVも真空管式だった。それどころか、小学6年の頃に新しく買った小型のモノクロTVも真空管式だった。1970年頃、トランジスタ式のステレオアンプは、最新式だった。1969年のアポロ宇宙船に使われていた小型コンピュータがやっとトランジスタになったころ。高周波ものは、まだ真空管が強かった。1970年発売の八重洲FT-101は、トランジスタ化されていたが、ドライバーと終段だけは真空管だった。1975年でも無線機は真空管があったと思う。5球とは、電源が整流管の5MK9、初段が周波数変換の6BE6、中間周波増幅が6BA6、検波と低周波電圧増幅が6AV6、低周波電力増幅が6AR5ということだ。今でもこの番号を思い出すとわくわくする。5球スーパーという呼び名を知っているのは、ひょっとしたら、うちでは末っ子の私だけだったかも知れない。電気を入れても真空管が動作するまでは、カソードヒータが熱するまで数十秒を要する。後ろの蓋を開ければ、ヒーターがほの赤く光り、けっこうな熱を出す。それと一緒に半田のヤニがやけるようなニオイもしたね。後にもっと古い並4ラジオというのを親戚からもらったりしたが、さすがに5球スーパーの方が高性能だった。なにせ、5球スーパーは、中波だけでなく、短波も聞けたのだ。3.5MHzはろくに聞こえなかったが、7MHzのAMの交信がときどき聞こえた。選択度が悪くて、特にCWは、混信だらけだった。SSBも聞こえたが、当然、モガモガで何を言っているかわからなかった。AMの交信もQSBで聞こえなくなった。中国が文化大革命の宣伝を流していた。ソ連(米軍?)のOTHレーダーが、タタタタと不気味な信号を強力に送っていた。西側の放送に故意に混信信号を送っていたという噂もある。不思議な時代だった。インターネットなんてない時代、海外を知るのは短波ラジオだけだったのかもしれない。ちなみに、衛星回線で海外にTV放送が送れるようになった最初が1964年の東京オリンピックである。その前年の11月23日、その衛星回線のテストをするため、NHK技術陣が待ち構えているところに送られてきたのが、J.F.Kennedy大統領の暗殺事件であった。当初は、サボテンの絵が送られる予定だったらしい。海外とは、そんなにも遠い存在であった。

ワイアレスマイク

電波を自分で作ってみたいから、ワイアレスマイクなんてものを作る。トランジスタ2石で中波AM、バリキャップダイオードを追加すると超短波FMのワイヤレスマイクが自作できた。小学5-6年の頃、電子ブロックで作ったAM中波が最初だった。当時は、まだFM放送は始まっていなかった。トランジスタの個数は、石(せき)で数えるんです。そして、実際に、トランジスタのことを石(いし)と呼んでいました。石(いし)のアンプは音が固いらしいとか言っていたのは、絶対石のように固いという観念があったに違いない。ラグ板の上に半ば空中配線半田付けで自作したワイヤレスマイクは、発振周波数がふらついた。変化する温度か、だんだん電池が消耗して低下する電源電圧のせいだろうか。家の物干し台にFMワイヤレスマイクのアンテナを引っかけて、テープレコーダーの音で変調をかけ、ラジオを持って近所を歩き回って、どこまで電波が届くか確かめた。100メートルくらいが限界だった。それをいかにしたら増強できるのか、中学生にはわかりませんでした。電源電圧が200Vくらいの真空管で作り直したらさぞかし飛ぶのではないかと妄想をふくらませたりしていたが、そんなえーかげんなことをするより、アマチュア無線の免許を取ろうと思った。免許を取って、真空管2E26で10Wの送信機を作りたいと考えた。

電話級を受験

   
 従事者免許は一生有効なので、写真が古い。
こんなもの見たって、本人とはわからないだろう。警察に見せろと
言われても、あまりに恥ずかしいじゃないか。
税金がかかるわけでもないが、死んでも返納せずに
放っておく家族も多いだろう。
 

私の電話級の免許状を見ると、その発行日は、昭和47(1972)年3月24日となっているから、中学3年生の卒業の月である。おそらく、前年の12月頃に受験したのだろう。高校入試の合間によくやったと思いたい。岐阜から名古屋まで一人で受験に行ったのだ。それがけっこうな大冒険。鶴舞公園の中にある公会堂が試験場だった。見たこともないような大きな教室だった。バスがわからなかったか、地図が読めなかったか、遅刻してしまった。後から、鶴舞は、つるまいではなくつるまだと親に言われた。そんなこと知らんがな。名古屋と言えば、名古屋テレビの名古屋地下街コマーシャルのちかちゃんしか知らなかったのだから。講習会を受けて免許を受ける方法があったが、田舎の貧乏人には無理でした。

オーディオ、コンピュータと洪水

免許は届いたものの、すぐに高校の猛勉強が始まったので、無線どころではなくなった。それに、当時は、ギターにも凝りだしていたのだ。スピーカーとか、ギターアンプとかを作っていた。つまり、無線より、オーディオに惹かれ始めていた。高校に入ってからは、通販で買ったパーツで、ICアンプを作っていた。電波は出さなくなった。中学校3年生の夏休みの自由研究は、16W 片側4石のステレオアンプだった。それをギターアンプに改造したりして遊んでいた。けっこういいのができたのだが、大学1年の時の洪水で捨てられてしまった。岐阜市の平和通にあるアダチ無線という電気屋が、パーツを売っていた。そこで中学生の頃に買った2600円のテスターやドライバは、今でも持っている。トランスやバリコンもいくつか買ったが、それらも洪水で流された。

高校で猛勉強できたのは、大学に入ったら、時間ができると信じていたからだ。多少は本当だったが、狭いながらも小さなアパートに独立すると、掃除洗濯自炊もせにゃならず、難しい数学、独語の勉強もあり、けっこう忙しかった。そうして、当時現れたマイクロプロセッサなるものを使うコンピュータにのめり込んでいった。デジタルの世界は、原理が簡単で、美しく、ものを作っても再現性が良かった。10MHzのオシロスコープ(シンクロスコープ)を買った。結局、専門を情報工学に選んだこともあり、電波はさらに遠ざかった。でも、大学2年の頃受けた通信工学の講義は、変調ってサイン波同士の乗算なんだ、三角関数の和と積の公式は、こういうところで使うのか、おーサイドバンドが二つ出るとわかっておもしろかった。でもアソシアトロンとかはもっとおもしろいと思った。大学の勉強をもってすれば、1,2級の試験など簡単なはずだと思って上級アマチュアの国試問題集を買ってみた。そうはいっても、結局モールスができないじゃないかと諦める。そこまでする気もなかった。

就職してやっとの開局

1982年に就職。給料をもらうようになって、無線熱が頭をもたげた。土浦駅のステーションデパートになぜか無線屋があり、そこで、ヤエスのFT-203 というハンディトランシーバを見かけた。145MHzで3W、見た目とても小さい。1984年のGood Design賞に選ばれており、3万円しなかった。一週間後にまた土浦まで買いに走り、即局免申請。1984年の5月に開局。JQ1QNWというコールサインが下りた。中学時代のJA, JH, JR,JEまでは知っていたが、その後、JFからJPまでは、数年で使い尽くされた。かっこ悪いコールサインだと思ったが、その後、JSとか7Kとかもどうかと思う。当時のCQ誌は分厚くて、図書館にも置いてあった。アマチュア無線は、人気だったのだ。厨房の夢が叶ったのだが、当時こだわった自作ではなく、メーカー製というのが不覚だった。でも、電話級の10Wごときで自作しても、計測器をそろえて、落成検査や予備免許を受けてというのは、あまりに敷居が高い。FT-203は、アマチュア無線の入り口にはちょうど良かった。当時は、4階建てアパートの4階に住んでいたから、そこからハンディホイップでもいくらか聞こえてきた。合併してつくば市になる前で、新治郡桜村でQSLカードを作った。 子供の頃からJARLのこととか、73とか、Eスポとかは知っていたので、アマチュア同士のディープな会話はそれなりにこなせた(つもり)。

4階のベランダに、ポールを突き立てると屋上にまで伸ばせるので、その先に、145/435Mhzのグランドプレーンを付けてみた。すると、聞こえる、聞こえる。関東一円とまではいかないが、たとえば日光からも、千葉からも聞こえる。東京は(今でも)意外と聞こえない。1985年頃の145MHz帯は、今(2015)と違って、大変な賑わいでした。おもしろくてあちこちと交信した。ハンディ機なので、軽自動車の屋根にホイップを付けて、筑波山まででかけてオンエアした。職場の数人を誘って、免許をとってもらい、自動車やオートバイ何台かで温泉旅行に行くときなども重宝した。

HFにも出てみたいので、KenwoodのTS-670を買った。 HF+50MHzの10Wポータブル機である。FT203もそうだったが、周波数シンセサイザー方式になって、バリコンで周波数を合わせる必要がなくなり、安定した周波数をデジタルで選択できるようになった。その周波数はメモリできて、スキャンもできる。アンテナは、7,21,28MHzのV型ダイポール。28はときどきしか開けないが、びっくりするほど良く聞こえることがあるのがおもしろい。21MHzは、ちかくよりも九州や北海道が良く聞こえる。7MHzは、明るい間は安定してうるさいくらいに聞こえるが、どれもせわしないQSOで終わる。TS670は、50MHzに出られるというのが特徴だった。50MHzというのは、なんとも中途半端な周波数で、短波のように電離層屈折では飛ばないし、超短波のようにアンテナを短くもできない。Eスポが出るとオーストラリアあたりとつながるらしいのと、50-54MHzと広々したバンド幅、それから、AM、FM,SSBと全型式が試せるのがおもしろいところだった。CQ誌などには、入門用のバンドなどと書いてあるのは、広いし人も少ないから、ここでいろんな電波を試してみなさいということか。HB9CVをたてて、出ては見たが、実際、相手を探すのに苦労した。

10年で閉局

その後、さらにTM-701という145/435MHzのモービル機を購入。モービルでも運用したが、どうもVHF/UHFの交信はおもしろくない。局数が増えすぎたのだと思う。小さな子供の前でやるのに適した趣味でもなさそうだ。そのうちに、趣味は、ラジコンヒコーキに移行し(息子は、けっこうヒコーキには熱狂した)、海外駐在があったり仕事が忙しくなったりで、お空に出なくなった。局免は、1度は更新したが、10年目には、放置して失効させた。機械は、もったいないので保管はしておいた。子供が大きくなって社宅が手狭になり、1998年には2階建てのデュプレクスに引っ越した。そのときにアンテナはすべて処分してしまった。サイクリングを始めた。

閉局の理由は、インターネットや携帯電話の普及にもある。電話級を電話級と呼ばずに4級と呼んだところで、無線には電話代わりのコミュニケーションツールとしての意味があった。無線の問題は、免許を持った人、局としか話しができなかったことだ。初期の携帯電話、特にPHSは、つながりにくく、電波を飛ばしているという実感があったが、2005年くらいからは、携帯電話の通話品質が非常によくなった。もはや無線とは意識せず、有線電話と同じような使い心地になった。スマートフォンのようなモノが出ればなおさらだろう。アマ無線を閉じたのは、私だけでなく、日本中、世界中がそうだった。総務省は、アマ無線の試験を簡単化し、低級ライセンスにも強い出力を許可することにしたが、落ちぶれつつある趣味を蘇らせることができるだろうか。無線機もバンドスコープが付くなどかっこよくなって、デジタルモードも追加され、インターネットにも接続できるようになったが、アマ無線は、(非常時以外)役に立てない、つまり便利にはなれないという宿命がある。

2015年、20年ぶりの再開局

この、簡単化されたアマ無線試験を利用せぬ手はあるまい。CWコードとかを覚え直して2級を受験、難なく合格。古い機械を引っ張り出して見るが、このままでは技適認定が得られないことがわかり、さらにFT203は壊れているのでとりあえず小さいハンディ機を購入して再開局申請。JQ1QNWは、まだ再割り当てされていなかった。2級が下りたら、100W機を買うことにして、まずはQRP運用を始める。

アマチュア無線の楽しみに続く。